劇人形作家インタビュー Akira KATAOKA

片岡 昌 の巻・下

― 劇人形の表情とはなにか ―

※この文章は、『Puppet House通信』No.3(97.1.1発行)に掲載されたものです。

前回に引き続き、“ひょっこりひょうたん島”の人形たちの産みの親であり、日本を代表する劇人形作家の一人として活躍を続けられる片岡昌(かたおか あきら)氏へのインタビューです。後編では、劇人形の表情、そして劇人形作家の役割などについて語っていただいた。

 

仏師のリアリティと文楽人形のアマさ

━━パペットのお店をはじめて、置き人形と劇人形、ようするにドールとパペットはどう違うのか、僕自身、すごく興味があるところなんです。動かせる動かせないという違いは大前提ですから脇に置くとすると、表情の違いがひとつ大きなポイントのような気がします。それを強く感じたのは、一昨年の夏、ローゼル氏(アルブレヒト・ローゼル。1922年生まれ。ドイツが世界に誇るマリオネットの名手)の“グスタフとそのアンサンブル”を観たときなんですね。舞台を観ながら、「さすがマリオネットの神様。なんて表情豊かな人形なんだろう!」と見惚れてた。で、芝居が終わったあと、ステージ脇のハンガーに吊り下げられている人形を間近で見て、すごいショックを受けたんです。ちっとも表情がない。捉えどころのない、本当に不思議な顔なんですね。そのときに僕は、表情というのは動きのなかにこそあるというか、動きそのものなんだと痛切に感じたんです。で、何日か後にローゼルさんのワークショップに参加して、いまの話をしたら、ローゼルさん曰く、「表情をつくり込む何歩か手前で止めなさい。表情をつくり込んではいけない」、と。

片岡◆うん、そうなんですね。逆に、置き人形をつくる人たちは、表情をすごく出すことが多いですよね。笑ってる顔とか、悲しんでる顔とか……、それでいて、僕からすると、表情が固いなと思うのが多いんですよ。でね、ローゼルさんは「手前で止めろ」と言われたという話だけど、言い方はともかく、僕が感じるのは芝居の人形はニュートラルでなければいけないということなんです。人形の性格、キャラクターは出さなければいけないんだけど、あんまり表情を出しちゃマズイんですよ。口元なんかでも、わりあい柔らかく感じないといけないと思うんです。僕の場合はだから、ニュートラルな表情ですよね。

━━「ニュートラル」ですか……。

片岡◆もうずいぶん前のことだけど、たしか『あやつり人形のかしら』というタイトルの写真集を見たことがあるんですね。文楽系のかしらがずっーと並んでるわけですけど、そのなかにドキッとするぐらいすごいリアリティの坊主のかしらがあったんですよ。「これはスゴイナ」と思ってね、解説を読んだら、仏師が彫ったかしらなんです。仏師って、仏像をつくる人ね。それを見たときに、「これは仏師のほうがスゴイや、文楽人形師のかしらはアマイんだな」という感じがしたんですね。でも、少し経ってから、それはちょっと違うかもしれない、と。そのかしらが実際に使われた芝居を比べて観てるわけじゃないから決定的には言えないけれども、文楽人形師のかしらのほうが様式化されていて、そのほうが芝居のどういう場面にも適応するんじゃないかという気がしてきたんです。

それとね、あなたは、ローゼルさんの人形がすごく表情豊かに見えたと言ったでしょう。それは、同じ人形を見ているにも関わらず、ローゼルさんのポーズやまわいや音楽や、ようは動かし方がうまいから、あなたが勝手に想像して、あっ、こういうふうに思ってるんだなという表情に見えてたんですよ。物理的には同じものが動いてるんですから。もちろん照明のせいもあるでしょうけど、ライトだって実際にはそれほど複雑に変えてはいないですよ。となると、ローゼルさんの人形を操るテクニックがうまいから、その全体を通してあなたが想像するんですね。あなたが悲しい場面だなと思うと、人形も悲しそうな顔つきに見えちゃう。

━━なるほど。僕はさっき、「表情は動きのなかにある」と言いましたけど、むしろ人形と観客の関係のなかにこそ表情は生まれてくるわけですね。そうなると、見る側が感情移入をしやすい、多様な表情を読み取りやすい顔こそが、柔らかくてニュートラルな顔だ、と?

片岡◆ええ、そういうことですね。

 

片岡人形の「余白」!?

━━そのニュートラルな顔のつくり方なんですが、ちょっと小耳に挟んだ話では、たとえば、目の角度を斜めに切っておくと、顔を下に向けたときに悲しい表情になって、上を向けると微笑んでいるように見えるというような……。

片岡◆ああ、そういうテクニックとしてはね、たとえば、頬の丸みと上まぶたの形を工夫すれば、下を向いたときと上を向いたときとでハッキリと違う目の形にすることはできるんですよ。それに顔の輪郭、鼻とかくちびるの形を組み合わせることで、意識的に見る角度によって泣いたり、笑ったりという表情になる顔はつくれるんですね。それはね、ひとみ座に入って何年目かに『絵姿女房』って芝居の人形をつくったときに、いっしょうけんめい考えたんです。でも、これも一種のからくりですからね、表情をガラリと変える必要のない芝居でまでそれをやったんじゃ、かえって演技を狭めていく可能性がありますから、そのへんは気をつけないと。

━━そうなると、ニュートラルな顔というのは、いったいどうやって?

片岡◆それがね、僕にとっては自然になっちゃってるもんでね、「ココをこうやらないとニュートラルにならないな」とかって意識してつくることが、あんまりないんですよ。だからあの、飾っておく、創作人形なんかでもうまい人いるでしょう。たとえば、天野可淡(1953年生まれ。90年に事故で急逝)さんなんていましたよね。

━━写真集でしか見たことないんですけど、夢に見そうな、ちょっと怖い、西洋人形風の女の子をつくる……。

片岡◆ええ、あの人のは素晴らしい人形なんだけど、「コレで芝居通せるかな?」と考えると、ある特定の場面でだけならいいんだけども、いろんなときにこの顔では、ちょっとどうかなと思うんですよ。僕は天野さんのことよく知ってたしね、すごいなと思ってるんだけど、コレで芝居通されたら辛いだろうなという感じがしちゃうんです(笑)。

逆に、劇人形の場合は、自分の作家としてのアレを100%ドォーと出してるわけじゃないんですね。文楽の人形なんかはとくにそうですけど、たとえば、大星由良助(オオボシ・ユラノスケ。義太夫浄瑠璃の最高傑作とされる『仮名手本中心蔵』の主役。大石蔵之助のこと)なら由良助がこう居ますよね。そのかしらを見ると、自分が思い描いた大星由良助像をドォーと出してるんじゃなくて、大星由良助を演じるに相応しい役者のかしらをつくってるんですよ。

━━なるほど、そう言われればそんな感じがしますね。

片岡◆文楽の場合は、現代人形劇の我われよりも融通無碍に、似たような役柄なら同じかしらを使おうかということで、髷を変えたりなんかして使うわけでしょう。だから、「大星由良助というのはこういう奴だ!」というんでつくってるんじゃない。僕はそう思うんですよ。その役を演じるにふさわしい役者をつくってるような感じがするんですね。まあ、実際につくってる人はそういう気持ちじゃないかもしれませんよ。だけど、僕から観ると、そう見えるわけです。それで、じゃあ、置き人形で大星由良助をつくるのと、劇人形で大星由良助をつくるときとではどう違うかと考えると、なんて言うか、キメ方というかね、僕は、置き人形のほうがキメルという感じがするのね。

━━「キメル」というのは?

片岡◆具体的に言うとね、刀(トウ)でもって口の端とかをピッピッと彫ってキメちゃう。目の縁とかもね、カチッと切っちゃう。僕は、置き人形を見てるとキメてるなという感じがするんですね。そのキメてるのが、へたな人がやるとあざといし、うまい人がやってると気持ちがいいしという感じがするんですけれども。そうやって刀でスパッと切っちゃうというのと、なんて言うか、文楽のかしらみたいに、こう面をポンッポンッとやっといてやるのとね……。

━━ドールとパペットの表情の違いと言ったときに僕が思い浮かぶのは、創作人形の場合は、人形に感情の動きがあるとすれば、ある感情の動きの一瞬を切り取るというか、あるいは感情を一瞬に閉じ込めるというか……。

片岡◆そうそう。だから、創作人形の場合は、きっと時間まで入ってるんですね。

━━そういう意味では「閉じ込める」と言ったほうがいいですか?

片岡◆そうですね。パペットのほうは、逆に、どこか抜けてるんですよ。

━━「抜けてる」ですか? ああ、なるほど。この間、大江巳之助さん(オオエ・ミノスケ。1907年生まれ。今日の文楽で使われているかしらのほとんどは大江氏の作。現在、同氏を人間国宝にするべく署名活動が行われている)のことを書いた小説(『文楽人形師 大江巳之助』内田澄子著)を読んでたら、娘遣いの名人だった吉田文吾郎という人が、「娘(の顔)はぼんやり彫るがいい。情けはわしが入れる」と若い大江さんに言うくだりがあるんですね。つまり、演技者のために「余白」を残しておけ、と。片岡さんがいま仰った「抜けてる」という言葉は、その余白にも通じるような気がしますね。そのあたりのことは、片岡さんもかなり意識されていることなんですか?

片岡◆うーん、それほど意識してなかったですけど、なんとなく自然にそうなっちゃったという感じがしますね。

━━使い手に余白を残すのと同時に、観客との関係で言えば、観る側にも余白が残されている人形というのが……。

片岡◆だから、なんて言うんだろう、やっぱり顔をつくりながら、光に当てて、いろんな顔に観えるようにという……柔らかさ、とくに口の端とかをカチッと決めない。そうすると、ヒュッと動かすと、なにかホワァッとした感じになったり、キッとした感じに見えたりという、そういういろんな方向に見えるというアレをやってみるから……。それがきっと、あなたの言う「余白」を自然につくってるんでしょうね。ただ、私自身は、直接、その余白を残すというかたちでは意識してないですね。

━━それは、照明がこういう角度で当たるとこう見えてという、きっちり計算した……。

片岡◆したもんじゃないです。スタンドなんかであっちこっちから光を当ててみたり、手にもっていろいろ角度を変えてみたり……。だから、たしかに違うと思いますよ。ひとつの場面だけを考えて、それだけのイメージで、怒ったなら怒ったという、どれだけ怖く見えるかというのだけ考えてつくるのと、いろんなふうに見えたいなということが頭にあるのとでは、自然にタッチが変わってくるんではないかという気がしますね。

 

キャラクターづくりで勝負

━━さきほど、創作人形だっら、作家の思いを100%ドーンとぶつけるというお話がありましたけど、それに比べると、演じ手にも観る側にも余白を残すつくり方というのは、どうなんでしょう? 劇人形というのは舞台で使うという前提でつくるわけですから、つくり手自身が演じない限りは、肝心の最後の仕上げを他者にゆだねる、演じ手の演技に仕上げを任さざるを得ない。つくり手としては、物足りなさというか、ストレスを感じるようなことはないんですか?

片岡◆それはないんですよ。そういう意味では「余白」じゃないんですね。余白というと、もっとやりたいのに残しておかないといけないというふうに聞こえちゃうけれども、そうじゃなくて、もっと大きくつかまえて人格、キャラクターをいかにつくるかというような考え方だと思うんです。だから、それは方向が違うだけで、彫り足りないとか、つくり足りないとかという問題じゃないんですよ。

━━劇人形作家にとっては、キャラクターづくりこそが最大の課題だ、と。そうなると、現代人形劇の場合は一体ひと役が基本なわけですから、同じかしらを使い回しする文楽よりも、もっとキャラクターをハッキリ出さないといけないというか……。

片岡◆そのへんは、僕も分からないんだよね。おなじ文楽人形師のなかでも、天狗久(テングヒサ. 1858~1943年)なんて人はね、「判官はん(『仮名手本忠臣蔵』の登場人物、塩谷判官エンヤ・ハンガン。浅野匠之神のこと)なら、判官はんの心になってつくらにゃいかん」なんて書いててね、本当は一体ひと役だって言ってますよね。あの人はそういう考えだったんでしょうね。だから、天狗久の人形っていうのは、文楽人形のなかではキマった人形ですわ。あざといばかりに刀をキュッとキメてね。ほかのかしらがフワァ~としてるのに、あの人のはカチッとしてますよね。それで、パッと見には、腕が立つ! って感じがするんですよ。僕に言わせれば腕が立つだけの問題ではないんだけれども……。

━━片岡さんの人形も、当然、一体ひと役なわけですよね。アリスの人形ならアリスの役だけだし、リア王の人形ならリア王の役しか演じない。それでいながらカチッとは決めない、柔らかくてニュートラルな顔にしないといけない。ある役を演じるのに相応しい役者をつくるのと、表情を出さないでキャラクターだけをつくるのとでは、どこが違うんでしょう?

片岡◆いやぁ、それを説明するのは、とても難しいんですよ。自分でもね、ハッキリ分からないんだな、コレが。ハッハッハッ。

━━そのへんは、やはりハウツーでは語れない、アーティストの感性の問題なんでしょうね。生意気を言うようですが、表情を出さずにキャラクターをつくるというのは、僕はすごく面白いと思うんですよ。創作人形の場合はどうなのか、勉強不足を棚に上げて漠然とイメージすると、表情があることでなんとなくキャラクターが出てるという側面があるような気がするんです。悪くすると、キャラクターよりも感情が先にあるというか。だから、その感情というか表情を抜きにして、キャラクターだけで勝負するのは、なかなかスゴイことだと……。

片岡◆まあ、願望ですよね。現実には表情がまったくなしというわけにはいかないわけだから……。

━━ただ、キャラクターがしっかりつくってあるからこそ、動かしたときに表情が出るというか、観る側が感情移入できるわけですよね。劇人形の魅力として僕はそこを伝えたいという思いがあるものですから……。

片岡◆そうか、そういうことって、なかなかないのかな(笑)。

━━お店でお客さんの反応を見ていると、表情をつくり込んだ人形を見慣れている方にとっては、パペットはなにかこうボッーとしていて、もの足りなさを感じさせる部分もあるわけですね。だけど逆に、その感情をあらわにしていない人形が、べつに芝居をやるわけでもなく、何気なく動かしてみたときにフッと表情が出て、「あっ、面白いな」と感じる。さきほど片岡さんは、劇人形は「抜けてる」んだと仰いましたけど、もう少しカッコよく言うと、飾り人形が感情の動きを「一瞬に閉じ込めている」とすれば、劇人形は反対に「すべての瞬間に開かれている」んだと思うんです。その意味で、劇人形というのは、受け手の側が積極的に関われる面白さと可能性を持っている。なにか固い言い方ですけど、それがパペットの魅力なんじゃないか、と。

片岡◆なるほどねぇ。僕はそういう人形のつくり方が自然になっちゃってるから、普通の置き人形みたいな造形をつくるときも別に意識しないで一生懸命やってるわけですよ。それでね、創作人形の人たちの人形展なんかに出展してみると、「アレ、オレのちょっと違ってるかな!?」と(笑)。ただ、だからといって、それが置き人形として欠けているというわけじゃなくて、そこはやっぱりものの見方の違いのような気がしますね。

 

人形美術家の役割

━━そろそろまとめに入らしていただくことにして(笑)、人形劇における劇人形作家の役割といいますか、言わずもがなのことですけど、人形劇にとって劇人形の要素はすごく大きいと思うんですね、その人形をつくる人形美術家の仕事とは何かというようなお話で締めくくっていただけると嬉しいのですが……。

片岡◆幕が開いた途端に、人形を見てガッカリしちゃうことだってありますよね。パッと見て、人形が気に入れば芝居のなかにすんなり入れるものが、最初に反発しちゃうと、最後までその芝居に馴染めなかったり、その世界に入るのが遅くなっちゃったりするでしょう。だから、人形劇の美術というのは、そうとう大きいですよね。

伊藤憙朔(イトウ・キサク.舞台美術家。1899~1967。舞台美術界のオーソリティ)が、舞台美術は副次的構成要素だと書いてるんですね。役者と観客がいれば芝居は成り立つ。それを副次的に総合芸術として盛り上げていくのが美術だ、と。それからすれば、人形劇の美術は副次じゃないですよね。何だろうなと考えると、人形劇の人形をつくる人は、演出家でもあり演技者でもなければいけないんですね。人形のスタイルというのは、本来、演出的要素なんですよ。で、個性やなんか面白く人形をつくろうというのは、役者的な要素なんですね。それを両方もっちゃってるから、人形のつくり手というのは、人形劇のなかでは非常に大きな役割を占めてるわけです。

━━その場合の「人形のスタイル」というのは……。

片岡◆ようするにね、芝居の幕がパァッと開くでしょう。そうすると、ズドンッとこう見えるものがあるじゃないですか。まあ、たとえば、ホリゾントだけでもいいわけですよね。で、こう人形なりなんなりがパッと出るでしょう。そのときに、「アッ、こういう世界だな!」というのを感じる。それがスタイルなんですよ。

━━もうひとつの役者的な要素というのは、個々の人形のキャラクターをどうつくるか?

片岡◆ええ、人間の芝居で言えば「役づくり」、役柄をどういうふうに理解するかですよね。だから、人形まで含めて舞台美術をどうするんだという話をしてるときには、演出家と切っても切れない関係にあるんですよ。で、いっぽうその人形がどういう性格でどうと考えるときは、演技者が頭の半分を占めてる。だから、本来なら、人形をつくる過程において、演技者が「自分のイメージはこんな人形じゃない」と言ってきたって不思議はないし、人形の使い手と美術家がああでもないこうでもないと議論してしかるべきなんです。まあ、実際には、なかなかそれだけの時間が取れないんですね。予算の関係もあるだろうし、いつもバタッバタッとやっちゃうから。理想と現実は、なかなかねぇ……。

━━片岡さんのほうから、使い手に対して、この人形はこういうふうに動かして欲しいというような注文を付けるとか、あるいはこの人だったらこう使うだろうから、こういう人形をつくろうとか、使い手をかなり意識して人形をつくることはあるんですか?

片岡◆それは、あんまりないですね。むしろ人形をつくっちゃってから、「これはちょっと使いにくいかな?」、「こんなもの、いったいどうやって使うんだろう!?」ってときはありますよ。で、稽古を見に行くと、「さすが使い手、うまいもんだ!」って。ワッハッハッ。

━━観客に対してはどうなんでしょう? たとえば、あきらかに子どものための芝居と、これは大人の客が多そうだというのでは、意識的に造形を変えたり……。

片岡◆それはね、『ひょっこりひょうたん島』をやってるときに、よく聞かれたんですよ。「子どもにどういうものを与えようと思ってやってるか?」とかね。だけど、僕はあんまりそういうのないんですよね。自分が面白がって、つくりたいものをつくっているだけで、どういうものを与えようなんてはあんまり思ってないんですよ。それは、結果的にウケれば嬉しいですよ。それこそ芝居屋っていうのは、ウケれば嬉しいですよね。「良かった! 良かった!」なんて、ムリに言わせたりするところもありますが、ハッハッハッ。だけど、人形をつくってるときにこうやればウケるだろうとか、教育的にどうだとか、子どもにいいものを与えたいだとか、あんまりそういう意識はないんですよ。

━━人形美術はお子様ランチではない、と(笑)。人形劇における美術の役割の大きさを考えたら、人形美術を中心に人形劇を論じることが盛んに行われてもいいような気がするんですね。そういう観点から人形劇を論じてる方は、どなたかいらっしゃるんですか?

片岡◆いやぁ、日本ではいないんじゃないですか。ようするに、劇人形を美術の作品として見てないんですね。小道具の延長みたいな見方をしてる。あまり関心を払ってないというかね。まあ、演じるほうには、どんな人形でも、うまく使えば見せられちゃうというようなところが昔からあるんですよ。ハッハッハッ。

━━そこはパペットハウスも劇人形の美術的な評価を高めるべく努力するということで、最後にひとつだけ、劇人形のつくり手としてのいちばんの喜びというか、片岡さんご自身が、「ウン、やったな!」と感じるのはどんなときなのか、お教えいただけますか?

片岡◆やっぱり、芝居全体の幕が開いたときの感じですね。スタイルの感じ。それから、「ホントにああいうことを言いそうなヤツが出てきた」というようなとき。昔ね、ひとみ座でチェーホフの『かもめ』をやったことがあるんですよ。あの大女優のアルカジーナ、彼女の人形をいっしょうけんめいつくってね。で、そのあと、モスクワ芸術座かなにかのエライ女優が演じてる映画を見たんだけど、パッと見て、「オレのつくった人形のほうがいいなぁ」って。エッヘッヘッ。「名優がやってもああはいかねぇなぁ。うん、ソレらしく出たなぁ」というのが、やっぱり喜びですよね。 (完)
(text by 深沢 拓朗)

※片岡昌氏は、2013年7月28日に永眠されました。謹んでご冥福をお祈りいたします。